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神戸地方裁判所 昭和40年(わ)648号 判決 1967年1月17日

被告人 和泉泰夫

主文

被告人は無罪。

理由

本件公訴事実は、被告人は自動車運転者であるが、昭和三九年五月一六日午後五時一〇分頃、普通貨物自動車(兵四の八〇七七号)を運転し、神戸市葺合区小野柄通八丁目二三番地先そごう百貨店西側の道路を、南進めの信号に従つて、時速三〇ないし三五粁で南進中、前方約三〇米の横断歩道東側の歩道上に信号待ちをして佇立中の多数の歩行者の中から三、四名の者が横断歩道を東から西に向け小走りに横断したのを認めたが、このような場合、自動車運転者としては、同人等の後に続いて横断する者のあることを予測し、充分減速するとともに、佇立者の動静に注視しつつ進行し、事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、漫然横断者はないものと軽信し、従前の速度で進行した過失により、小牧幾太郎(当時六八才)が道路を東から西に向け横断しようとして、約九米前方に飛び出したのを認め、急制動措置を講じハンドルを右に切つたが及ばず、自車前部を同人に衝突転倒させ、よつて、同人を、翌一七日午前二時二八分頃、同市生田区加納町三宮金沢病院において頭蓋内出血により死亡するに至らせたものであるというのである。

よつて、証拠を検討するに、

一、実況見分調書

一、死体検案書

一、梅内正和の司法警察職員に対する供述調書

一、角南健二の司法警察職員に対する供述調書

一、鑑定書

一、鑑定人青山英三の当公廷における供述

一、被告人の当公廷における供述

一、同人の司法警察職員に対する供述調書

を総合すれば、

被告人は、神戸ニツサンモーター株式会社に自動車販売員として勤務し、自動車販売のため、日常、普通貨物自動車運転の業務に従事している者であるが、昭和三九年五月一六日午後五時一〇分頃、普通貨物自動車(兵四の八〇七七号)を運転し、神戸市葺合区小野柄通八丁目二三番地先に当る百貨店「そごう神戸店」西側の巾員約六、五米の南行車道を、進めの信号に従い、時速二〇粁内外の速度で南進中、進路前方約三〇米の地点から南方へ一〇米に亘り区画標示してある(巾員一〇米の)横断歩道上の南寄りを、その東端の歩道上で横断者に対する止まれの信号に従い佇立して信号待ちをしている多数の歩行者の中から出た二、三名の若者が、右止まれの信号に違反し、南進している被告人運転の自動車に注意を払いながら走つて横断を敢行し、無事横断を終えたのを認めたが、その余の横断者は出ないものと考え、そのまま南進を続けて右横断歩道内に進入し、自動車の前端が右横断歩道の南端に約七米(運転席からは約九米)に接近した際(時間的には前記二、三名の若者が横断を終えた後約三秒位を経過した頃)、多数の歩行者が前記のように横断歩道東端の歩道上に依然佇立して信号待ちをしているのに拘らず、前記若者とは無縁の者と明らかに認められる小牧幾太郎(当時六八才)がひとりこれにならわず、無謀にも間近に迫つている被告人運転の自動車に一べつの注意をも払わず、自己の行動の安全性を顧慮することなく、右横断歩道の東南隅から稍西南に向け横断歩道に外れて小走りに飛び出して横断を始めたので、被告人は衝突の危険を感じ、直ちに急制動の措置をとるとともにハンドルを右に切り同人との衝突を避けようとしたが、既に、間に合わず、同人を自車前部左端に衝突させてその場に転倒させ、よつて、同人をして頭蓋内出血の傷害を負わせ、これにより、翌一七日午前二時二八分頃、同市生田区加納町三宮金沢病院において死亡するに至らせたが、当時右現場の交通は車両、歩行者ともに極めて幅輳していたことが認められる。

そこで、右小牧幾太郎の死亡事故につき、被告人に業務上の注意義務違反が認められるか否かにつき考えるに、前認定のように、本件事故現場は、車両並びに歩行者の交通が極めて幅輳し、信号機による交通の整理が行われている横断歩道の直近の車道であつて、右信号機による交通の規制が厳しく順守せられることを要請せられる場所であるところ、右事故の際、被告人は、前方の前記横断歩道を歩行横断する者に対する信号が「止まれ」を表示していて、右横断歩道の東端の歩道上には多数の歩行者が右信号に従い横断を待機佇立しているのを現認しながら、自己に対する「進め」の信号に従い南進し、右横断歩道に接近したものであつて、以上のような諸状況のもとにおいて、横断歩道東端の歩道上に佇立して信号待ちをしている多数の歩行者群の中から、「止まれ」の信号に違反し、周囲の者の態度にならわず、あえて、横断を敢行するような特異な行動に出る成人者が出現することを予見することは、その予見を可能にするような更に特別の事情の認められない限り、被告人をはじめ、一般の自動車運転者として困難なことに属すると考えられる、然るところ、本件事故の際には、前認定のように、その直前に、前記諸状況のもとにおいて、若者二、三名が南進する被告人運転車両の前方三〇数米の横断歩道上を走り横断を敢行した事実があり、右のような状況下において敢えて横断を敢行する者の出現することを予見することは通常困難なことに属するとの歩行者に対する信頼は現実には破られたものであり、被告人もこの事実を現認したのであるから、十分注意力を働かせるにおいては、右若者にならい、更に横断を敢行する者が出現することを予見し得たのではないかと考えられ、検察官もこれを積極に主張するので、更に考えるに、右横断敢行の若者は、前記状況のもととは云え、被告人運転車両がなお三〇数米離れた北方にある際、その進行状況に注意を払い、自己の横断の安全性を測定しつつ走り横断して無事これを遂げたものであるから、この事実があるからと云つて、前記諸状況に加え、右若者が横断を終えた後更に約三秒位を経過し、約二〇粁の時速で疾走南進を続けている被告人運転車両の前端が横断歩道南端まで約七米の至近距離に迫り、自動車前方の横断歩道上或はその直近の横断歩道外を安全に横断することは通常人として考え得ないほど危険の切迫した状況下において、近接している自動車に対し一べつの注意も払わず、自己の行動の安全性につき全く顧慮することなく、突然右自動車の直前横断を敢行するような無謀な行動に出る通常の成人者があることは、前記若者の横断状況を現認した被告人としても予見不可能に属すると考えられ、一般通常の自動車運転者を同様の立場においてもその予見可能性は異ならないと考えられるから、被告人が、前記若者と全く関係のない小牧幾太郎の自動車直前の横断を予見しなかつた点につき、注意義務の違反を認めることは相当でない、従つて、また、前記若者の横断を認めた後更に徐行しなかつたことについても過失を認めることはできない。而して、被告人は、小牧幾太郎が横断を始めるや直ちにこれを発見し、前認定のとおり、これとの衝突を避けるため、即時急制動措置をとるとともに把手を右に切るなど可能な適切の避譲措置をとつたのであるが、高速疾走中の自動車として避けることのできない、いわゆる反応時間内の空走とこれに続く滑走とのため、被害者との衝突前に停止することができなかつたもので、被告人が被害者の横断開始後にとつた行態にも過失は認められないから、結局本件公訴事実はその証明がないことに帰するので、刑事訴訟法三三六条に則り無罪の言渡をすることとする。

(裁判官 長久一三)

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